2012年03月29日
渡嘉敷島 北山 フィジガー付近
今はグラウンドになってしまった第二自決場付近。
「集団自決の地」の慰霊碑の後ろにある獣道。第一自決場と呼ばれるフィジガーに続く道。
慰霊の為に訪れる人が多いのか踏み固められていた。
獣道は突然急峻となった。
沢の石に付着した珪藻が血の色をしていた。先入観を持っているので、ついつい勝手な因果関係を想像してしまった。
フィジガー(?)に到着。実は本当にここなのか確認が出来ていない。砲爆撃から多くの非戦闘員が隠れられる場所は周囲にはなかった。また、南東の方角に沢があるが、そこには軍が構築した無数の壕がある陣地なのでそこではないと判断した。
広角17mmで撮影しているからそういう感じじゃないが、結構狭く急峻な谷間である。
折角ここまで来たのだからと、その現場に下りてみた。ハブが多数生息する場所なのでおっかなびっくりだ。
やっとの事で現場に降り立った。東西と北は岩山なので艦砲射撃で直接照準はできない。避難場所としては地形的に妥当か?しかし西海岸沿いに北上してくる敵軍にたいしては無防備だし、周囲を制圧されると逃げる事はできない。
せせらぎと鳥の声と風の音しか聞こえなかった。遠くの海鳴りも聞こえたかな?
南西側。急峻な崖でである。登るのも降りるのも装備が無いとキツそうだった。
ここに来たのは2回目。始めて来た時はその夜うなされて一睡も出来なかった。今度は覚悟を決めてきた。
そうは言うものの、どう撮っていいのか頭の中で整理できず、似たような写真を撮り続けてメモリを無駄に消耗した。
謝花直美著「証言 沖縄「集団自決」-慶良間諸島で何が起きたか-」岩波書店によると周囲の斜面で家族や親戚が集まって手榴弾で自爆を繰り広げたという。何となくそういう雰囲気の場所を辿った。
末期の水となったかもしれない沢の水はあまり綺麗ではなかった。やっぱり、赤い珪藻が血のように見えて仕方なかった。
下流には小さな砂防ダムがあり、当時の地面は何mか地下に埋れているのかもしれない。裁判の時に発掘調査をして物的証拠とか検証したのだろうか?
凄く急峻で狭い谷間なんだけど、17mmの画角だと画面に収まるもののリアリティがでない。苦悩させられた。
ここで倒れた人々と同じ視線で。こんな所で一人ダイイン?もう必死でシャッターを切った。
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ちょっと角度を変えて。当日は土砂降りの雨が降ってきた。しかも夜中。いたたまれない。
川の中に浸かっての撮影。感覚を麻痺させないと撮影にならない。手を合わせて念仏やウートートを唱えようものならカメラはたちまちに構えられなくなってしまう。
意味ありげな木。もしかして弾痕の開いたまま成長した木かもしれない。
こちらは、アメリカ軍第77師団の兵士が登ってきた方向。この谷を登ってきて集団自決後の現場に遭遇した。
こちらがその砂防ダム。よく観ると意味ありげな木が他にも写っている。
次はもう来られないかもしれないと思うとなかなか離れられず似たような写真を撮り続けてしまった。
集団自決に関しては、いろいろな諸説があり、いろんな人が勝手に言いたい事を書きまくっている。当事者による一次証言と現場検証による事実確認が重要だと思う。憶測が憶測を呼び伝説が生まれる。
林博史著 「沖縄戦「強制された集団自決」」
謝花直美著「証言 沖縄「集団自決」-慶良間諸島で何が起きたか-」は良く事実確認をしていると思う。また、渡嘉敷村史には、当時村役場の兵事主任の証言。沖縄県史には村長および海上挺身第3戦隊の副官の証言、防衛庁には海上挺身戦隊の史実資料などの証言と言うより報告書のようなものも残っている。
なかなかイメージがまとまらず、シャッターを切りまくった。この谷間はかなり薄暗く露出補正が大変だった。
300人以上が自決した場所と言う事で、先入観を持つと空気の重さを感じ精神的に大分疲労しそうだが、1時間以上滞在し、あーでもないこーでもないとカメラを持ってあっちこっち歩いているうちに、何か心が晴れ晴れとしてきた。清清しいと言ったら不謹慎かもしれないが悪霊とか暗いイメージは洗い流せたような気がした。
渡嘉敷島 離島 辺境の地と言うイメージだが意外と東京から近い。那覇空港からゆいレールで見栄橋まで行き、歩いて数分で泊港。そこから高速船で30分で行ける。日帰りも不可能ではない。
写真を撮らせてくれて有難う。さりさりーうーとーとあーとーと!
当時、この島で実権を握っていたのは駐屯する日本軍だった。村役場すなわち行政はその管理下に置かれていた。「合意地境」という局地的な戒厳下に置かれていたのだ。(兵事主任の証言)
この島に配置されていたのは、爆弾を搭載したモーターボートで敵艦に体当たりする特攻隊だった。米軍が本島に上陸したタイミングで背後から迎撃する段取りだった。
だから、この島の日本軍の配置、規模は絶対秘密にしなければならない。米軍に悟られては絶対にならない。そこで島民は厳しく日本軍の監視下に置かれていた。
しかし、米軍は本島より先に慶良間列島に上陸してきた。合理的に考えれば、特攻艇を出撃させて反撃すれば良いのだが、日本軍の戦術が米軍にバレると、後々の特攻作戦が成功しなくなる。日本軍は特攻艇を破壊して山の中に篭ってしまった。
さて、そうすると住民が捕虜になって特攻隊の存在が米軍に知られると言う危機が生じる。日本軍は特攻隊以外に歩兵の装備を持った基地部隊が2個小隊150人位しか居ないので住民の保護は不可能だった。
特攻隊の存在を秘匿しなければならない。もちろん日本軍もそういう事態を想定していたと考えられる。住民を口封じさせる為の段取りを行政に命令又は協議したようである(状況からの推測で命令書は残っていない)。
...
米軍の上陸直前に村の少年を村役場前に集めて手榴弾が配布され、住民の間に手榴弾が行き渡った。自決の音頭をとったのは村長である。また死に切れない住民を処置する為に機関銃を貸してくれ!と軍の陣地に要請しに行ったのも村長である。
隊長の命令の有無が争点になっていたが、重要なのは軍の強制の有無である。責任を追及すれば軍のみならず行政、また住民の一部や昭和天皇も責任が問われかねない。そこで隊長の命令の有無を争点にする事にすり替えられているんじゃないか?と言う印象である。
渡嘉敷島の隣、前島の国民学校校長(地域の指導者)は、日本軍が駐屯した場合、米軍が攻めてきたときに戦闘が起こり住民が巻き添えになると予想した。そこで、米軍が来たときには校長が責任を持って住民を処分(自決させる?)と言う約束で渡嘉敷島から派遣されてきた日本軍の駐屯を上手く拒むことに成功した。そして米軍が上陸した時、その校長は住民を纏めて全員無事投降させている。
もちろん、この事例をもって渡嘉敷島の村長を非難したり校長を英雄視するのは簡単だが、それは結果論であって、もし、その校長の動向が米軍に投降する前に日本軍に知られれば反逆罪で惨劇になったかもしれないのだから。当事者の苦悩は計り知れない。
日本の敗戦により平和が訪れた。運の良い人々は生き延びる事が出来た。しかし、生き残ったことを喜んだ人は皆無と言っていい。集団自決によって我が子を我が親を、最愛の人を死なせてしまった自責の念は深くて重く、どんなに年月が経とうとも消えるものではない。
また、狭い島の中、あるいは家族の中で、当時の立場、その立場に付随する責任によって加害者になったり被害者になったりした人たちが、戦後同じ共同体の中で一緒に生きてゆかねばならなかった。責任の追及なんて出来るものじゃないし、また、それを強行すれば非常に残酷な事にならざるを得ない。
生きてゆく為には沈黙と泣き寝入りするしかない。戦争被害者の実情がそこにある。それが生存者、生還者の戦後67年である。この不条理に対し憤りを感じずには居られないのだが、残念ながら私には遠巻きに写真を撮って記録する事しかできない。
撮影 2008年10月 67年経ってあまり報道されていないようなのでささやかに掲載。
Posted by すぎやんま at 02:57│Comments(2)
│沖縄戦跡巡りの旅
この記事へのコメント
集団自決に関するすぎやんまさんの論説、深く感銘を受けました。
Posted by 与那原人 at 2012年09月30日 23:32
与那原原人 様
拙いブログですが、ご覧頂き有難うございます。
拙いブログですが、ご覧頂き有難うございます。
Posted by すぎやんま at 2012年10月05日 00:24