2013年01月16日

浦添市 ウフグチガマ

浦添市 ウフグチガマ


「ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ。 具志堅隆松著」「証言沖縄戦 戦渦を掘る」に記されていたガマ。読み終わった後、実際に現場に行って観ておきたいと思わされたが、実は5年前にウフグチガマとは知らずに撮影していたことが判明した。

浦添市 ウフグチガマ


 ギザギザした岩肌を見て人工的だよな....と思わされた。ふと、足元に小さな穴が開いていた。埋没壕だと思っていたが、いざ入ってみるとそこそこ深い縦穴だった。やっと足場を確保して振り向くと地上が遠く上の方に見えた。

浦添市 ウフグチガマ


埋没壕だと思い素通りしようとしたら、ストラップから懐中電灯が独りでに外れて壕の奥に吸い込まれる様に落ちて行った。仕方なく回収する為に入らざるを得なくなったのだ。降り立つと土の匂いと無音の世界を感じた。

浦添市 ウフグチガマ


ウフグチガマは奥行きが100m以上ある巨大なガマで戦火を逃れて住民約100人日本兵約50人が潜んでいたが、アメリカ軍の馬乗り攻撃で崩落し、その殆どが岩の下敷きになって殺された。奥の一角、ごく一部分だけが崩落を免れて、偶々そこに居合わせた人々だけが助かり、脱出口になったのが写真の場所である。証言通り人が一人やっと通れる小さな抜け穴だった。
 
浦添市 ウフグチガマ


 懐中電灯が壕に落ちてしまったので、予備の懐中電灯を頼りに壕に入った。壕の中に降りると左手(南側)に広い空間があり、右手(北側)に向かって幅60cm位の岩の割れ目があって更に下へ伸びていた。懐中電灯は最下層まで落ちていた。仕方なく最下層まで降りて回収する事になった。この壕は私の侵入を拒んでいるのか?奥へと誘っているの?それとも私の事を試しているのか?写真は懐中電灯を回収してやっと撮影する余裕を取り戻したので、早速だが最下層から上を見上げて写した。

浦添市 ウフグチガマ


 こちらは最下層の様子。最下層と言っても幅約1m高さ数十センチでの空間で緩やかな傾斜で更に東へ伸びていた。内部は岩の割れ目に63年分の土砂や石ころ、そしてゴミが流入し埋没している様な状態で匍匐前進すれば更に奥に行けるかもしれないが、岩に挟まって自力で出られなくなると危険なので行かなかった。証言によれば下半身が岩の下敷きになって脱出できなくなった沖縄初年兵(1944年10月ないし1945年の3月に入隊した沖縄出身日本兵)が居て、生還者たちは彼を連れて行けなかった事の自責の念で今も苦しみ続けているのだと言う。やがてK氏や具志堅さんらの手によって彼の遺骨も回収されたのだが、もしかしたら、この狭い空間に挟まれて居たのかもかもしれないと思わされた。

浦添市 ウフグチガマ



 最下層はともかく狭かった。天井が低過ぎてカメラを構える事が出来ないのだ。そこでこの狭い空間にカメラを突き出すような姿勢で撮影した。構図も何もあったものじゃ無く、ストロボの光は凸凹した天井に遮られ何度も撮り直してヘトヘトになってしまった。南側に広がるホールを写し忘れたのが残念で仕方が無い。

 
浦添市 ウフグチガマ


 
 まだ、駆け出しで壕に入る事に慣れてなかった事、そしてカメラも今使っているものより感度が低かった事もあり、撮影枚数が極端に少なかった事が悔やまれた。地上に戻ると日が暮れて暗くなっており、小雨も降り始めたので足早にその場を去った。多分カメラが濡れることを恐れての事である。写真は壕から数十m南へ離れた場所から撮ったものである。上手く言葉で表せないが何と無くお名残惜しいような気持ちだった。

同じカテゴリー(沖縄戦跡巡りの旅)の記事
遺骨の混ざった土
遺骨の混ざった土(2021-03-02 01:35)

南城市 糸数監視哨
南城市 糸数監視哨(2013-03-07 00:00)

西原町 陣地壕
西原町 陣地壕(2013-01-26 00:00)

八重瀬町 91.4高地
八重瀬町 91.4高地(2013-01-13 01:02)

浦添市 兵員壕
浦添市 兵員壕(2013-01-13 01:00)

Posted by すぎやんま at 00:00│Comments(0)沖縄戦跡巡りの旅
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。